ねてもさめても

とある若俳オタクの戯言

ガチ恋オタクの自己分析。

推しとの距離の取り方がわからない。

心穏やかに、ただ「応援する」ことができない。

 

推しは芸能人だ。Twitterのフォロワー数も、同世代・同業者のなかでは比較的多い方だし、コンスタントに仕事も入ってきて忙しい方だ。ステージに立つ彼は、私とは住む世界が違う人。近づいてはいけない、ただ憧れるだけの対象。頭ではわかっているつもりなのに、なぜ「芸能人」と「ファン」の関係性をつらく思うのか。

 

冷静になりたいので、その理由を思いつく限り書き出してみる。

 

  • その界隈での人気はあるが、一般的な知名度は低い

だから、いまだに「私が行ってあげなきゃ!」「一席でも多く埋めなきゃ!」と思う。頼まれてもいないけど。

 

  • ”悪目立ち”するファンが少ない

一定数ファンはついているが、ライトな層が結構な割合を占めている気がする。毎回全通したり高額プレ贈ったりしているような人たちも、いるはずなのだけどどこに生息しているのかわからない。そういう人たち、つまりTOでいるため札束ブン回している感じの、同担は敵!みたいな思想のゴリゴリのオタクが表に出てきていない。いるのは知っている。けどまだ表面化してこない。だから危機感(?)がわかない。(なんの危機感?「負けてる!」と思う危機感かな。「私なんて」と思うための要素というべきか。)

 

  • 本人が「芸能人」ぽくない

若くして芸歴もまあまあなわりに、いつまで経ってもピュアというか。(もちろん褒めている)どんな仕事も目をキラキラさせて新鮮に楽しんでいる。だから昔から変わらない親しみやすさがある。そして感覚がどこまでも庶民的。ブランド物とか実はあまり好まない。(だからファンとしてはプレ贈るハードルがそこまで高くない…内緒です)

更に言うと、本人がファンとの間に壁をあまりつくらない。「あれ、知り合いでしたっけ?」と錯覚するほどのラフさがある。ファンの中にはアブナイ人もいるという感覚、ちゃんとあるのだろうか…。あまりにも近づきやすいんだよな。

 

  • 性格がよすぎる

これは前回記事でサラっと触れたとおりです。後にも先にも、こんなに人間的に出来た人、二度と出会えないだろうと思っています。

 

 

それで、以上をふまえて私はどうしたいのか。

 

やっぱり付き合いたいとでも、結婚したいとでも思っているのだろうか?

うーん、思っているかもしれない。先日知人に酒席で「イイ人いないの?」と問われ、自然と推しの顔が思い浮かんで、自分でびっくりしてしまった。こんなにブスなのに?彼に何の良い影響も与えられないのに?よくもそんな図々しい。

けど、実はそれくらいバカでかい夢でも持っていないと、生きる活力がわかなかったりします。これが幸せなのか不幸なのかわかりませんが。

 

前回エントリで、「わたしはガチ恋なのか?」「そもそもガチ恋ってなんだ?」と考えた結果、次のとおりに結論付けました。

 

7.結論
文章が迷子になり始めたので、そろそろここまで述べてきたことをまとめます。

 

◼︎推しへの愛を暴走させる自分とそれをセーブする自分がいて、このふたつの人格に挟まれて愛情がネガティブな方向に歪んでいる(可能性がある)。

◼︎推しに対する執着は、ネガティブな愛情が変化したもの?

◼︎ただしこの愛の行き着く場所は未だ見えず。

 

今日も、「推しくんが好きだから、彼にとって特別な存在になりたい!!」と暴れる私を、「ファンと芸能人の間の壁を越えようだなんて甚だおこがましい!ベストな関係でいることがお互いにとっての幸せだよ!?なんでわからないの!?」と押さえ付ける私とが、激しくバトっています。結果、今この瞬間も、私は自分の中に「りさ子」を飼い続けております。

 

考えても仕方のないことを延々と考え続ける夜はもう嫌だなあ。でも、何にも見えてこない自分の将来に目を向けるよりも、少し現実的に思えてしまう。これはすべて盛大な現実逃避なのかもしれません。今日も眠れない夜を過ごします。(重い…)